お喰い初め

これまでの作品資料をひっくり返していると、やはり遺産としての価値について考えてしまう。
こういうことは自分で考えるべきことではないのだけど、残念ながら大多数の絵画は評価できない。
いま見直すと呪術的な記号を描いた小石や、プログラミングで生成していたイメージは、その時代ならではの存在をアピールしている。
でも、小石は人に貰われて手元に無く、映像VHSのテープに残された荒い画質のイメージ以外には見ることができない。8mmテープは再生する装置が周辺から姿を消し、コンピュータもN-88Basicを再生できるパソコンが無くなっているできるとしたらProcessingなど現在のプログラムに置き換えることぐらいか。そう思って3年ぐらい前から何度もこのプログラムを学習しようとして果たせずにいる。それほど再現は難しくないが、二十数年間のブランクの間に、この手の作品はずっと複雑で洗練されたものになっているので、当時の物を再現する意味はあっても動機が弱くなるのだ。
女房は、俺が時折話す子供のころの京都の情景を描き残すべきだという。確かに興味を持つ人は多いだろうし、誰にでもできることではない。俺にとっても今自分が持っている表現手段がそのまま使える。「そのうちに・・・・」とか言ってる時間はないぞ。
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さてさて、今日は孫の「お喰い初め」というお祝いがあった。3人の子供にはしたような記憶が無い。少なくともこんな贅沢な宴席は設けなかった。京都と福島の夫婦だから親戚も遠くてできなかった。
お宮参りでも同様だったが、こんなにチヤホヤしていいのかという疑問を持ちつつも、近所に双方のジジババが居て初孫を甘やかすのは、ごくごく平凡なことではないかとも思う。
若い二人から生まれた白玉粉のようにツルツルの赤ん坊を俺はいつも「王子様」と呼んでいる。
今夜は大人7人と犬一匹と大量のご馳走に囲まれ、大変だっただろう。お疲れさま。