10月

アスレチックの腹筋台から見上げた空を10月のカレンダーに描いてみた。

このごろ、厚塗りが多くなっている。強い発色に絵の具の力を感じる。

これまではずっと薄塗りだった。厚塗りは無駄で、もったいないと感じていたのだが、保管していた絵の具が硬化してきていて、余生では使い切れない惧れも出て来た。

パレットに絵の具を残すのが嫌で、どこかに塗りつけて作品をダメにすることがこれまでに何度もあった。

生まれついての貧乏性だ。消費は精神衛生に良いという意見もあるが、俺は「安く済ませた」ことに安堵と快楽を覚えてきた。

限りある人生だから、使うべきところには使うように改めなければいけないな。

 

木登り

一年に何度もないほどの強烈な日差しが照りつけた一日、孫がやって来たのでハシゴを架けてクロガネモチに登らせてみた。

一年生のNo.2はビビっていたが3回目には慣れていた。No.1の五年生はシラけてyoutubeに走る。今日は彼の1週遅れの11歳の誕生を祝ったのだが張り合いのないこと。まあ、当然のことで、5歳まで、あるいは小学校低学年までが可愛さの限度だ。

この1週間、銀杏を採集していた寺に隣接する保育園に4歳児を迎えに行く。

園児が声をかけて来て色んな話を聞かせてくれるので、保育園は天国のような世界だ。

自我が芽生えるのは人間だけなのだろうかな?

No.3は恐怖心のカケラもなくハシゴを登って行く。樹上から道を行く女の子に大声で呼びかける。生まれついてのチャラ男である。

2階の床面と同じほどの樹高で、小枝を切り払って居場所を作る。

ここで一杯飲みながら読書できれば最高だな。

銀杏

今日も銀杏狩りに。お寺で拾って近くの河原で皮をむく。位置は定まっていて左側にドバッと実を落として、折りたたみ式のザルで身を潰し、タネは真ん中へ、カワは右側へと分けて行く。

オレンジ色の果肉が堆積するが、一雨降れば綺麗に流し去ってくれるから河原は掃除しなくてもよい。

先日、市内の病院に行った時、平和大通りNHK前にあるイチョウの下が大量の銀杏で黄色くなっていた。

市内では珍しい大樹なので、この季節になると老人が輪になって銀杏が落ちるのを待ち構えていたものだが、放置されて誰も取る人がいない。

これにはビックリだが食べられるまでの手間暇や作業の場所、空間を考えると、そういう余裕が街中では失われているのだろう。いやいや、俺の住むセミ田舎地域でも銀杏を拾う人は居ない。

ワサビや果物の売り上げが半減している理由が一人暮らしの増加だという。毎朝いっぱい野菜や果物を食べている俺には気づかないところで人々の暮らし方は大きく変わって来ているのだ。

本日の記録

サーブ練習。確実に入るフォームで脱力して振り抜けば正統的な打法で強打するよりも有効であることが、また再確認できた。けれど自分が非力な女性の体格、体力であることを認識できず豪球への憧れが捨て去れない。

ピアノ練習。一年かけて覚えたGolidberg25番がひと月弾かなかったら忘れてる。

複雑に絡む構成はメロディで記憶はできない。かといってメロディを記憶しているモーツアルトは指がついていかない。

映像制作。頭で構想したことを手で描き動画にできた。この調子で進もう。

図書館で5冊本を借り、ビール2本飲む。

もうすぐ夕食、本日も幸福。

同窓会

MINIMUM復刻版が出されたのが一年前になるが、同窓会からそれを取り上げた会報が近々刷りあがると知らせがあった。

元の職場に立ち寄ることもほとんど無くなって遠くに感じる。よく毎日あそこまで自転車で通っていたなと思うこの頃だが、一方ではテニス練習会でS大学には毎週通っていて、そちらの方に帰属意識が出て来ているのは寂しいことだ。

あれほど心を配り、将来を案じていた学科も気にすることがない。

退職者にはこういう方も多いのではないか。

外に出て気づく同窓会の大切さと価値。

(でも俺の出た小中高はすべて廃校になってしまった。)

僕の出身大学の美術研究会からは毎月、同窓会からも年数回の会報が届く。以前はどうでもいいとおもっていたけど、この頃は有難く受け取っている。

元職場の卒業生も70代後半になって来ているので、今から同窓会の存在意義が出てくるはずだが・・・・

現代日本は共同体を破壊して機能集団へと「改革」を進めていて、組織のトップや経営陣はその先頭に立っているので、同窓会を保護維持して行くかどうか、怪しいな。

 

面白くてわかりやすい

午前に皮膚科の治療があり市内の病院に行った。カバンに吉野弘の薄い詩集を入れて行ったのだが、これがとても良い。

高田渡が老人に座席を譲る娘の葛藤を歌っていて、その歌詞が吉野弘だと知って図書館で借りた。こんなに素直に思ってることを書いて詩になっている。

解説を読まなくては理解できないものは美術でも音楽でも価値を感じない。

面白いな、と興味をひかれるかどうか、そこで決まりだ。

秋分の日にドライブしながら醜聞の日だったらどんなのかな?と思った。

吉野弘は「スキャンダルはキャンドルだ」と書いている。

結ぶこととほぐすこと、とか。

 

午後は女房のテニスグループに呼んでもらって大汗をかく。おばさんテニス恐るべし。

純文学とか純喫茶という言葉を今時の若い人は知らないだろう。

純音楽とか純美術という言い方がされていないのは歴史的な経緯の有無だろうけど、そういものがあってもいい。池に小石を投げ入れてその余韻に3分間あまり浸る。空を流れる雲を1時間眺める。「純」というとそんな感じだ。

では純の反対語は何だろう?不純は別方向に行ってしまうから却下するとして、汚、濁、混が浮かぶが、やはり雑で決まりか。

雑喫茶で雑音楽、いいねえ。ジャズ喫茶でジャズみたいだけど、そういうところなら行ってみたい。雑文学、雑美術、どれもそそられる。

俺はやっぱり「雑」だ、とふと思ったけど冷静に考えるとかなり「純」への志向が強くて壁になっているようだ。「雑」のたくましさが必要だ。

 

純愛というのも若い人は知らんかな?と調べてみて驚いた。今世紀初頭に純愛ブームがあったという。全然知らんかった。そのブームのルーツが俺の頭の中の純愛らしい。さすが70代だな。

雑愛というものがあるとしたら、どんなものかなあ。

去年も来ている井仁の棚田。もう稲刈りはほとんど済んでいた。

「名を呼ぶ歓び 名を呼ばれる歓び」とある。浄土真宗の寺。

 

秋空2

午後、S大テニスコートで見た青空をタブレットで描いてみた。

鋭い陽光で大汗をかいたが空気は乾いて快い。来る途中で拾った銀杏を帰り道の傍にある渓流で洗いほぐす。田舎暮らしの利点。

昨晩、元同僚からメールがあり、我が家の長男がメディア芸術祭で大賞だという。

見ると7人のグループで作った建築的な装置が受賞していた。自分の活動を息子はほとんど知らせない。以前から連絡してみたら外国に居たなんてことが何度もあった。

知り合いには晩御飯の献立まで毎日母親に知らせてる40歳代の女性が居て、それはおかしいと思うけど、あまり音沙汰がないのも寂しいものだ。

もっとも長男は孫の行動については毎日のようにWEBのアルバムにアップしているので、暮らしは見えている。

昨日は近隣の孫N0.1の11歳の誕生日だった。(俺の兄貴と同じ日だが、70人居るとほぼ間違いなく同じ誕生日の二人組がいる、と確率論では言われている。俺の感触では9月と3月に集中しているけど・・・)