ちょっと読書から

いつものように新書版。これが俺の限界。
並行して3冊ぐらいを読む。
英語上達本と日本文化論、いっぱい類似の本が出ていて、共に日本人のコンプレックスを直撃するので売れ行きが保障できるカテゴリー。それと橋本治の創作裏話。
流し読みしたそれらには千何百年の昔から外国語を補助するというか日本語化するために働いてきたカタカナの問題が通底していた。
英語はその綴りをそのままカタカナにしてしまったので、それがこの国際化というご時世で大変な混乱を生んでいる。「まあ日本語になってるのだから、いいじゃないか」という時代は過ぎたと俺も思う。
やたらと英語がカタカナになって氾濫するから、許容できる範囲をはるかに超えてしまった。
特に異国人との生身の接触や音と映像での意志伝達が日常的になってくるとマネーはマニでないと困るわけだ。
もう原文で表記するしかない。いま漢字とひらがなを混ぜて日本語を表しているように。
それが嫌なら頑張って翻訳しなければならないが、それ以前に「英語で表したい」という願望が存在している。
たとえば「カウンタビリティ」は「説明責任」と言えば良いのにそうはしない。
「説明責任」だって「わかりやすく、つたえるように、まかされていること」みたいに言ってもよいが、押し出しが利かないから漢字熟語を使う。
むかし漢字が輸入されたときも「すごいなあ、漢字で書くと迫力が違うぞ」とか「漢字が使える俺はカッコいいなあ」とか人々(男たち)は思っていたんだろう。
英語も同じだ。いくら負け惜しみを言ってもスマートに英語を話す人間には気後れしてしまう。
しかし、英語の氾濫、混乱、何とかしなければいかん。
先日の会議で再三「IR]という言葉が使われたが、「知らないのは自分だけか」と黙って聞いて、後からWEBで調べたらInstitutional Researchだった。確かに翻訳しにくい言葉だけど、こういう言葉の使用は場に亀裂を生む。
やっぱり、ひらがながいいですね。
国粋主義じゃなくって。
あ、これは漢字の国粋じゃなくって「やまとごころをたいせつにしましょうよ」と言うべきか。
なんか世界の平和はここから、みたいな気がしてくる。
なよなよした柳腰のおとこがフラフラ漂っている光景が浮かぶね。
それでいいと思うけど。
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