本屋

先日、京都の恵文社に行って思ったことや思い出したこと。

ここでは古本も交えて「自分の好きなものコレクション」として書棚が構成されていた。
友人宅の本棚を眺めているような気分。
これがいいのだという主張に共感できなかったら厭味だろうけど。

京都にはこんな店が多い。
頑なにウッドラケットを並べているテニスショップとか。
爺さんはフォームの乱れは樹脂のラケットが原因だと力説するけれど、竹の棒で棒高跳びに挑むようなもので、性能の差は圧倒的なのに。
結局は「棺桶に入れられる」という効能で売れているらしいが、見て触っているだけで幸福にさせる力はあるので、ウッドラケットは我が家にも2本ある。
昔の京都は、合羽だけの専門店とか、赤マメだけの店、玉子焼きだけの店など、基本的に専門店で、何でもあります揃えてますというのは無かった。
だから本屋も、仏教書、美術書、法律、地図と専門でやっていた。
残念なことに、そのほとんどは消え去ろうとしている。

すべてが揃えてある巨大店も悪くないのだが、本の価値を否定されるような無力感に襲われることがある。
巨大モールでも同様の吐き気を(サルトルみたいに実存的な?)催すことがあるし、やっぱり需要と供給にも適量というものがあるはずだ。
また、店が選ぶことで泥水を濾すように、信用、見識というフィルターが機能するだろう。

懐かしく思い出されるのは京都書院という河原町にあった美術専門書店。
ずいぶん勉強させてもらいました。
パルコ系の書店もセンスが良かったし、いまでも青山のブックセンターにはその雰囲気が残っている。

また、そういう店は客層がいいんだな。
それが店の雰囲気をいっそう高めている。
東京神田の古書店街やロンドン、チャリングクロスの本屋、フィレンツェフレスコ画天井の本屋なども良かったなあ。
それを言い出すと世界の図書館とか、言いたいことが一杯出てくる。

仕事の面でも、今月末の実習課題は製本で、教材の選択で試行錯誤しているところだし、職場での役職は図書館長なんで切っても切れない仲とはこのことです。

でも幸せになれます、本との付き合いは。