色の伝達

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卒業制作の図録を、授業の中で学生に作ってもらおうとしている。
そこで印刷所の基準に合わせたカラープロファイルを読み込んで、画面の色と刷り上がりが一致するようにモニターの色を統一したいと、俺じゃなくって授業担当のMさんが考えた。
とても大事なことで当然のことでもある。

コンピュータでは色彩が数値情報に基づいて表示されるので、世界の何処でも「客観的な」色を伝え合えるはずである。
しかしディスプレイによって色の表示は異なる。それを統一するために基準が設けられているのだが液晶のメーカーによって出方は異なる。
CDを再生するときに優れた音響装置と安物のラジカセでは全く音が異なるのと同じだ。
それならどれが「客観的な」音なのか?
加えて受け手、リスナーの好み、感受性も異なる。
色の場合も同様だ。
同じ色といっても見ている人によって、相当な違いがある。
俺は絵を描く人たちに、たくさん接してきた。
とても美しい色使いが出来る人がいる。きっと彼らはそれを感じ取っているのだろう。
俺は魅力的な色彩の作品を作ったことがない。作れない。
多分、感じていないのだ。それを平均以上の鑑賞体験でカバーしているのが本当のところ。

そんなことを考えながら思うのは、やたらと使われる「数値目標」という言葉。
何か数値になったら客観的になったと錯覚している。更に恐ろしいのは数値化されたものを確実なものと考えているという現象だ。

曖昧であるという自覚。曖昧でなければおかしいという認識。
こういうことを言うとコンピュータはいけませんなあ、という結論に導きたくなる人が多いのも困ったことである。
コンピュータは色彩の学習にとても便利だ。自在にバリエーションを作れるので重宝している。
自動車と同じでコンピュータの存在は善悪で語れない。
事実、現実なのだ。
俺はできるだけ自転車に乗るけどね。