京都市内から北を見てると、右手に比叡山、左手に愛宕山とほぼ同じ高さと山容の二大峰が対峙している。
今回の展示で搬入設営を済ませた翌日、孫のリクエストで愛宕山に登った。
これまでに6回ぐらいは登っていて、それぞれに思い出深いので、記憶を辿ってみるのも良いけれど、相当な文章量になりそうだから、またいつか。
比叡山はドライブウェーやケーブルカーでのアクセスも良く、陽の気が感じられるのに対して、愛宕山は嵐山のさらに奥に引っ込んでいて、厳しく暗い雰囲気になっている。けれど、千年以上前から続いている比叡山での修行を考えると、観光の発展は堕落退廃とも言える。
しかし、愛宕山にもケーブルカーはあった。これが80年前に廃止された路線跡だ。
頂上にはホテルが建てられ、始点の清滝までは嵐山から電車が通じていた。そこには遊園地も設けられていたという。ほとんど比叡山と同じ観光開発がされていたのだ。
ケーブルカーは両方とも1928年前後に設置されている。
日本中でこのような開発が行われた背景には都市住民、工業社会の労働者が増えて新たな娯楽が求められていた事があるようだ。デパートも同様だな。
戦時中、全国のケーブルカーは「不要不急」とされて鉄路は軍用に徴用された。
数年前、頻繁に使われた「不要不急」のルーツがここだったとは、ちょっと怖い。
戦後、ほとんどが復活するが愛宕はそのまま消滅したというわけだ。
登山口の清滝は子供の頃に来ている。親父が仕立て業組合の寄り合い(酒宴)に参加していて、子供達は周りの河原で遊んでいた。
この赤い橋を記憶している。ここに息子が子供を連れて来ている。3世代前のお話。
愛宕神社は火伏せ祈願で知られ、京都市内の旧家には必ずお札が貼ってある。
7月31日の夜は千日詣りとして夜間登山が行われて賑わう。
中学生ぐらいだったか従兄弟みんなで走って往復した事もあり、手軽な山というイメージが強い。けれど往復5時間を要するので11時以降は登るなと掲示されているように標高差850mはかなり過酷だ。
参道だから道は整備されている。女房と孫はスニーカー。
倒木が多い。数年前の台風で杉の大木が被害を受けたそうだ。因みに息子は樹木医でその関係の仕事をしている。あまり登山をしていない孫は、いきなりの高山で弱音を吐いていたが基礎体力があるので少し休憩すれば平気に登っていく。
いちばん弱っていたのは俺だった。「無理に頂上まで行かなくてもいいんだよ」と孫の弱音にかこつけていたけど、へとへとだった。
日曜でもあり、登山者は多い。登るほどに冷たくなってくる。
最後に長い階段があり、ようやく頂上の神社へ。火伏せのお札をいただく。
3000回、参拝登山しましたという石碑があちこちに。
ほんまかいな?毎週登って一年で60回としても50年。毎日登っても10年近い。
千日詣りに3回来たのならわかるが、嵯峨野の住民でも困難な数字、信じられない。
帰りは黙々と急いだけれど、やはり2時間。合計5時間のハードな登山でした。
渡月橋でバスを乗り換えて帰宅。翌日から展示のオープンなのに何をするために京都に行ったのか。