補足

陶芸の里は有田以来だった。あれから9年が経つ。備前にも有田のような氏神さんがあって、狛犬や造作に土地の技術が使われている。この神社から始めた町歩きの途中で、この二つの町と対照的な陶芸技法について考えた。

人工と自然、技巧と無作為、豪勢と質実、計算と偶然、世界と日本など様々な比較をしてみる。

ひとつ茶碗を買い求めたいとも思ったが、選択には相当に長い時間がかかると諦めた。

滲みのような無作為の美を導き出す仕掛けを生み出した作家によって、備前の価値が上昇したのかも知れないが、同時にそれは堕落の危険も生んだに違いない。

茶や禅の世界には不明瞭な、単純明快には語れない判断基準があって、それが魅力になっているが同時に胡散臭い印象も与えている。

でも、歳をとったのだろう、そういう価値に傾きつつある。数千年の人類文化が何を産んだのか?という疑問を抱かせるような事ばかりが続いているからだろう。

 

71歳の誕生日は長岡京で。孫に囲まれ、東京の孫からもビデオ通話で大賑わい。

風呂も布団も孫と一緒で嬉しい事だったが、寝相の悪い男児に蹴り出されて悪夢の夜となる。1週間以上も一緒だった女房の苦労がわかった。

今は京都の母の家に。週末まで滞在予定、さて何をするか