記憶の京都7 絵表所

狭い通りを挟んで我が家の向かい側に、堅固な作りの二階建て町屋があり、その表札には「絵表所」とあった。
時折、ガハハハという太い笑い声が聞こえていたが、人の出入りも少なく、何をしているところなのかさっぱり解らなかったが、母の話ではここに通ってくるオッサンは美大出身らしいとのことだった。
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二十歳を過ぎた頃だったろうか、僕は屋根裏部屋で絵を描いていた。夏で窓は全開だったな。
お向かいの2階で通りを見おろしながらタバコを吸っている肌着一枚の若い男と顔が合った。
「絵を描いてるんか?」
「まあね、そっちは?」
「俺は襖絵を描いてるんや。誰も居らんさかい、見に来んか」
ということで生まれて初めてお向かいのお宅に足を踏み入れた。
広い畳の部屋には制作中の襖絵が寝かせて置かれている。
押し入れには、原画となる巻軸がいっぱいあって、その原画の上に絵絹を重ねて墨で輪郭をトレースする。それに彩色する作業中だった。
絵表所は西本願寺系寺院の内装、絵画関係を扱う所だったのだ。
襖絵を描いていた男は元カツオ一本釣りの漁師だったが大怪我をして絵の道に転身したという。
信じられない変化だが、男の筋骨は逞しく、片眼は全く動かなかった。
その後にも、彼とは何度か言葉を交わし、特に自動販売機と喧嘩したという話が印象に残っているが、いつしか姿を見なくなった。
昔の絵のコピーばかりだからあまりおもしろくなかったのだろう。
でも、絵を描くことが「仕事」になっている。仕事とはそういうものなのだろうか。
いま、絵表所は重厚な現代建築に建て替えられて、小さな表札は大きな銘木の看板になり、前庭には高級車が駐まっている。
絵が芸術とか表現だけになってしまうのも考え物だが、革新に背を向けて営々と過去を守る仕事も受け容れがたい。それが続けられていた。目の前で。

ご近所の、松風という地味な和菓子を売っている店は創業350年だという。(改めて調べたら元祖は1483年というから500年前!)
京都の老舗は守り通すことに専念してきて、様々なノウハウを持っているのだろうな。

ということで、前回の話題につながるのだが、
美術が身の回りで職業としても存在していたので、特殊なものという意識は無かった。
だから広島に来てみて、人々が美術を「彼方にあって、こちらには無いもの」として殊更に東京を意識していることが奇異に感じられたものだ。
(洋画や彫刻なんて日常生活と関係ないから、此処に無いのが当然ですけどね)
絵を描くことは、歌うことと同様に人間の基本的な行動だから「特殊」ではない。祈りや祭りと共に人生を彩ってきた。
その美術が、日本中で(京都でも)失われようとしている。