実家に帰ると母がいつも話すのが小学校の美術教室の思い出だ。
「あの時は親も一緒になって楽しかったなあ。あの中澤先生はどうしたはんねやろ?」
「自分の歳を考えてみいな、生きたはったら百超えてるで」
こんな会話が何度も繰り返される。
土曜日の午後、小学校を使って無償で開かれていた美術教室。
山が好きな中澤先生は、本格的な登山と高原気分が気軽に味わえる比良山にも連れて行ってくれた。(矢印が俺と母だ。)
母はこれを思い出す度にこの時点に戻っている。
97歳だから当然だよなと、繰り返される会話に付き合っているが、最近、同じ構図の会話を体験した。
妹が仲人をしてくれたH先生に久しぶりに挨拶に行ったという話。
このご時世やから玄関先で10分ほど。85歳になったのでいろんな相談役からも身を引いてフリーになるとのこと。
俺はそれを聞いて愕然とした。俺の記憶の中ではH先生は40歳代で止まっている。
それが85歳だって!どういうこっちゃ。
妹はタイプを学んだ後、京都の大きな国立大の事務に雇われて農学部のS教授の研究室に配属された。その方にはとても良くしてもらったが、すぐに総長というヤクザの大将みたいな役職につかれたので、当時、助教授だったH研究室へ。
俺の職場と同様に当時はK大でも若手研究者や学生の飲み会が頻繁に開かれていて、紅一点で酒に強く、美形の(俺には全く似ていない)妹はいつも一緒に騒いでいた。
夜遅くなった妹をタクシーで送って来て、母親に頭を下げていたのが助手のUさんだったが、この人は最近まで神戸の国立大の学長だったと聞いて、またまた愕然。
そんなに時間が経ったのか!
おれはこの誰とも会っていなくて話に聞いているだけ。この春に退職した妹の亭主はこの研究室の学生だった。
自分のことなら「あっという間のことでした」だが、記憶の中で凍結していた時間差は衝撃的で、浦島太郎の感慨に近い。
粉雪が舞う冷たい朝だったが、テニスをしていると日が射して汗ばむ陽気になり、午後はまた曇って薄ら寒い。過ぎ去った時間に思いをいたすにはぴったりの天候だ。
年賀状も書かないといけないな。