送った鯉のぼりが届いたと動画が来た。

今回、描いていて、これまでよりも小さいなと感じていたが、実は大きかった。

長女、長男、次男と次第に大きくなっている。記憶っていい加減なものだな。

新緑の季節になった。

長男一家から日光でのイチゴ狩りスナップがたくさん送られて来た。

楽しそうで嬉しくなる。

こちらの三男一家は多分、カープの試合応援だったはず。6-0で勝っていた。

これまた結構なこと、みんな上機嫌だろう。

サッカーのサンフレッチェも勝っていた。スタジアムに近いS大のテニス練習会コートの傍を紫のウェアを着た応援帰りの人たちが嬉しそうに通っていた。

今日のテニスはサーブがしっかり決まったので気分がいい。

練習の成果だな。かなりやったから。

70歳を越えて何かを改良しようとすれば、若者の数倍も時間をかけなければならない。

幸い自由に使える時間はふんだんにあるので、ピアノ練習や墨書を楽しんだが、かつては2ヶ月で出来たことに一年をかけていたようにも感じる。

やりたかったことって、とてもたくさんあるのだけど、残された時間、喜びを享受できる時間はそれほど長く無い。

というか、一昔前ならとうに終わっている年齢なのだ。

ライフデザインの意義も大切さもわかるけど、もっと今を生きることを重視したほうが良い。俺にとっての充実や幸福は、長期的構想よりも刹那に在る。

先々のことは孫に任そう。

鯉のぼり

七番目の孫、颯杜(はやと)に送った鯉のぼり。基調はブルーだが表裏で異なる図柄。

もう、鯉を描くことは無いだろう、な?

 

コロナで保育園の送迎が限定されていたので、長らくご無沙汰していた園に入った。

懸念していた人見知りはなく、まずは一安心。

無事連れ帰れば、隣家の美女と戯れて家に入らない。

孫に付き合って前の通りでゴロゴロしていたが、寒くも暑くもない良い季節になったんだと、しみじみ実感。

夕食はロールキャベツ。とても美味しいソース。毎回、女房は調理に気合を入れている。彼女の得意をアピールしているのだろう。

味覚の記憶は深く長く残る。孫たちが将来、どんな思い出を蘇らせるか?

食後はいつものように大運動会で大騒ぎ。

 

シャクナゲ

去年、東広島の福成寺でシャクナゲに感心して、地元の花みどり公園に行ったら盛りを過ぎていた。そのリベンジである。

見事に満開。5千本を謳うだけの迫力はある。

クマンバチがせっせと働く。これだけの蜜を集めてどうする?

こんなに見事なシャクナゲだが観客はまばら。

確かに花は見事なのだけど環境がいまひとつ。急傾斜の山奥に在る公園の周囲は工場が多くて、雰囲気、空間として花を楽しめない。

奈良の室生寺シャクナゲの名所だ。花の時期に訪れたことはないが、花の印象は全く違ったものだろう。絵でも一番肝要なのは背景だが、花にとっては背景というより舞台である。

広島市の最大の弱点はここだ。

ボケーッとしてる間に鯉のぼりの季節になった。先月生まれた孫、七人目に作ってやらねば、と慌てて製作にかかる。

キーボードスタンドに長板を置いて和紙を広げ、アクリルで描く。

これまでに10匹以上は描いてきた。もう描くことはないだろうな?

コシアブラいっぱい

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先日、下見をした丸山での山菜コシアブラ採集に孫二人を連れて。

昨年、注目したポイントだ。

新芽の3分の2は残す余裕の採集でも小袋ふたつがいっぱいになった。

この3年近く、旅が制限されていたから、この山系を中心に孫と一緒に山歩きを続けてきた。そうこうするうちに中の子は今春から小学校だ。楽しくやれてるのかな?と少し心配。下の子は憎まれ口を叩くいっぱしのワルになってきた。

上の子はもう5年生。成績はどうなん?と聞くと「自分では良いと思ってない。けど、人は良いと言ってる。」と、いつものように持って回った言い回し。でも良く出来た返答だな。

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魚の頭のようなコシキ岩。この岩の上に立った時は足がすくんだ。 平然とした子供と震えるジジババ。

着実に世代交代は進んでいる。

行き当たりばったり

先日の帰省で、津山から姫新線に乗った時、佐用で50分ほどの乗り換え待ち時間が生じた。何もない静かな町だが歩いていると役場の裏手に立派な図書館がある。

その入り口前に廃棄するので持ち帰り自由の本や雑誌がたくさん並べられていた。

そこで手に取ったのが10年前の「文學界」。読まれた痕跡がなく新品同様。

ヤマザキマリ島田雅彦の対談に惹かれたが、他の記事も面白い。

文芸雑誌って滅多に読まないから結構、刺激を受けて、京都に滞在中、布団の中で読んでいた。

掲載の作品や広告などをメモしておいたので、帰ってから図書館で検索して予約。

昨日からそれを読み始めた。

こういう行き当たりばったりの(出会いとも言うが)選択で、生きている。

もう少しは骨太な、必然性のある道を歩んでいてもいいのだけど。

谷川俊太郎の詩集、川上弘美の小説、穂村弘の短歌、淀川長治の映画評論、数学的な美術の解説本、などなど。

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夢で見た古い町並み。

世界のどこかにこんな所が在るのだろうけど、そこを訪れる機会はあるのかな?

街ではユニセフウクライナ緊急支援の呼びかけをしている。

ちょうど一年前の退職を機に、続けていた寄付活動を中止したばかりなのに、またこれか。

今日は一月ぶりに近隣の孫三人の来襲。腹の底から絞り出す大声と底知れない食欲の大喧騒で、屋根裏の動物も退散したのではないか。

季節は巡る

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桜が終わりツツジの季節になっている。

一年が過ぎた。

振り返ると平穏無事な一年ではなかった。初夏まではコロナの蔓延、緊急事態宣言で大人しく地域で過ごしていたけど、初めての体験も多くて閉塞感はなかった。

秋以降はオブスクラの準備やMINIMUMの復刻、京都への帰省、身内の不幸などせわしく過ぎた。

これからだな。退職後の暮らしが形になるのは。

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食器棚の棚板が不安定になって、幾つも陶器が割れた。

レストアを趣味とする俺は女房の反対に屈せず、修復を楽しむ。

瞬間接着剤とモデリングペーストはいつもの素材だが、今回は絵付けの再現にカラーインクを使い、良い結果が得られた。

食器棚は側板が歪んで、棚板を受けるダボとの重なりが僅かになっていた。幾つかの対策を考え、最も堅実な策として、代替のボルトでダボを延長した。

30年使っているが、家具がこれぐらいで痛んでは困る。100年以上の耐久性は欲しい。

こうやって日々のトラブルを繕いながら暮らしていくのが老後なのかも。

かくも長き不在

「かくも長き不在」というフランス映画があった。記憶を失くして戦争から帰ってきた夫と、その妻の物語で、ラストシーンで男の受けた傷の深さが伝わって来る。

名作でした。

我々も長く家を留守にしていたので、(女房は17日間、僕は10日間)その言葉が浮かんだわけです。

帰宅した夜、床下でドサドサと物音がする。えっ!泥棒かと思ったが、どうやら一、二階の間で何かが走り回っているようだ。

翌日、外回りをチェックするが通気口に傷みはない。次に押入れの上から天井裏を覗いて見た。以前に置いたネズミ駆除の薬剤が残っている。それを片付けようと懐中電灯を置いたら、なんと壁面の上は塞がれていなくて、ストーンと床下まで落ちてしまった。

重りに粘着テープを付けてタコ糸で吊るし引き上げを試みるも失敗。残念。

電池が切れるまで光り続け、この家が解体されるまで人目に触れず、床下のゴミとなる。哀れ。

こんなに狭い隙間があるならネズミはたやすく登ってくるだろう。1階床下のチェックも必要だ。しばらくはネズ公とのバトルが続くな。

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我が家の八重椿、なんやら病的な空気。