記憶の京都5 家

前回のイラストの右下に、ちょこっと描いた我が家の外観は、竹囲いの貧相なものだった。虫食いの穴から白い粉が落ちて、ポロポロと崩れていくのが恥ずかしかったな。


内側も相当にボロかった。
なにしろ新撰組の下級武士の長屋だったというから少なくとも90年は経っている。
(友達の爺さんは親から新撰組に切られた人の話を聞いたとか。この辺りには新撰組関係のエピソードが沢山残っている。)
裏庭に面した、生活空間を思い出しながら描いてみた。

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ちょうどこれを描いているときに大阪から妹が見舞いに来てくれたので、感想を聞きながらあちこち修正した。
かなり記憶っていい加減なものだ。兄貴にも見せなくては。

当時、家には水道が無かった、なんて60歳以下の人達には信じられないだろうが、僕が生まれた頃の水道普及率は三割以下だったのだ。
セメント製の流しとポンプは屋外だったが、屋根はあったのかどうか。
それでも都市ガスは来ていた。再々停電で暗くなったときに使ったガス灯の「ブオーブオー」という音を記憶している。あ、これは描き忘れたぞ。

部屋の隅には、掘りごたつのように掘り下げた半畳のスペースがあった。
我が家は洋服の仕立て屋だったから、針やアイロンなど子供に触らせたくないものがいっぱいあった。それで幼児をここに入れておき、子守をしながら仕事が出来るようにと父親が工作したのだ。
 
仕立ての作業はバイタ(場板?)と呼ぶ10cm近い厚板の上で行われていた。糸駒はアメリカ軍のランチボックスに入っていた。番茶の金属缶とかもリアルに思い出せるが、水回りの描写は「まあ、こんなものかな」という形式的なもの。
この後、仕事場は表の間に行ったり、屋根裏部屋に移ったりしていた。足踏みミシンの音、仕事をしながら父と母が歌っていた鼻歌が今も耳に残る。

縁側で夏の午後など、所在なく本を読んでいた。
家には「アレキサンダー大王、山中峯太郎著」と「紅はこべ」しかなかったから専らアレキサンダーだったな。その後、「世界地理の図鑑」が愛読書になる。
この挿絵の記憶だけで大学受験に対応できたのだから少年期の読書は有効ですね。

石の手水鉢は今も庭にある。その下には小さな金魚池があり、妹が頭から落ちた時に金魚のことを話したような・・・
鉢の周りにある葉蘭はいま、広島の我が家で蔓延しております。
それを囲む石は野山に出るたびに、母親が集めて子供のリュックに入れて持ち帰ったもの。道路は未舗装だったけど街中だから大きな石はなかった。
などなど、上げていけばキリがない。
それではいつまでたってもBLOGを更新できないから、まずはこの辺りで。

このイラストのコピーは妹が持って帰って母親に見せるということだから、どんな反応があるか、それも楽しみだな。