記憶の京都4 あわしまさん

粟島堂という女人守護、人形供養で知られる寺が近所に在る。
戦前には遊郭があった島原の女郎衆が、家の前を通ってお参りに行く姿が哀れであったという母の話を何度も聞いている。
着崩れた厚化粧の女たちの姿を想像したのは、もちろん成長したのちのことだ。新聞配達のバイトを長くやっていて、担当した地域が島原の元遊郭だったので、いろんな光景が頭の中で絡み合ったのだろう。

このお寺の周辺に「あわしまさん」と呼ばれる定期市が立ち、我が家の前までテントが並んでいた。小学校低学年の頃には自動車が走り始めて、この市は消えてしまったから記憶は定かではないが、衣類の店が多くて道具や骨董が無い印象がある。

先日、ネットの青空文庫柳宗悦の「京の朝市」を読んでいたら、京都在住中に東寺弘法さん、北野天神さん、それにこの粟島さんにも骨董を求めて足を運んでいたという。
WEBで検索してもほとんど情報が得られないので、直接にお寺にメールしたら早々に返事を頂いた。
粟嶋堂宗徳寺のご住職のお話では、毎月3回、市が開かれ一時は京都駅まで続いていたというから相当に大きな市だったようだ。
僕の家はこの市の北限にあたり、ちょうど家の前でテント掛けの露店が終わっていた。
ということで「あわしまさん」と呼んでいたこの市の記憶を描いてみた。

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右下のあばら屋が僕の家。当時、正面の作りは竹の囲いだった。
隣が西栄寺さん。いま本堂はコンクリートになり銀杏も切られている。

本堂の正面に子供が二人居る。手前が僕で上がお寺の娘さんの摩耶ちゃん。ここでキリストの絵本を見せてもらって、磔のシーンに凄い衝撃を受けた。

本堂右手は生活空間で、町内初のテレビ出現に子供がいっぱい集まっていた。
裏手には婆さんが隠居している庵があって、この裏庭で何やら良くないことをいろいろやっていたような気がするなあ。

さて、本題の「あわしまさん」だが、露店がぎっしりと並び、近所一帯が暗くなるので僕は嬉しくなかった。
店には暗い色の衣類や布が多くてそれもうっとうしい雰囲気を強めていたようだ。
市は右手を曲がって二筋、200mほどの粟島堂まで続く。お堂の近くでは道具類の露店も出ていた。
前回、路上看板師を紹介したが、あれはこの粟島堂北側の路上でのこと。

絵に描くとずいぶん広々となってしまうけど、実際はもっと狭くてゴジャゴジャです。
(小学生の時に家の仕事場を描いたら、とても狭くて窮屈な部屋が30畳ぐらいの倉庫みたいになって面食らった。癖なんですね。その絵はアルゼンチンに行ったのだが、どうなったのかな?)

今月は定例の展示が控えていて、いま制作中なのだけど、こっちのイラストがおもしろくて集中できない。紅葉も素晴らしくて気もそぞろだ。
何かやらなくてはならないときはこういう状態になるものだが、
かなりハイで良い調子ということですね。