爽やかサンデー

アホみたいなタイトルだが、朝から東風が吹いてえらく爽快だ。台風の余波だろうか。
何処かに行きたくなるが、涼しそうなところは手近にはない。
蝉の鳴き声を録音しようと外へ出たら庭の木陰が涼やかだ。
風があるから蚊もいないので椅子を出した。
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猫の額ほどの坪庭だが、手水鉢から流れる水で苔が綺麗に育っている。腰掛けてみると向かいの団地が塀に隠されて、毘沙門まで緑がつながっているかのようだ。
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山をじっと眺めていると、ふうっと眠りに落ちる。昨夜の眠りが浅かったこともあるが、この感覚、90歳の老人になったかのようだ。
何もできなくなったとしても、こうして風景を眺めて、昼には素麺など食べられるなら幸福なのだろうな。人生の究極的な意義は「つなぎ」というか接続にあり、価値を問うべきではない。でないと、自分を含め、ほとんどの人が生きるに値しないことになってしまう。言い訳っぽいけど。
でもね、最近の人口増加は毎年1億人。僕が生まれたころから倍増していて、級数的変化で急上昇。世界中何処へ行っても人でいっぱいだもんな。
医療と年金で財政が破綻して、その次は食糧危機。となると、人道なんか言ってられなくなってユニセフ解散、姥捨て復活。宗教で個人、変化、成長、贅沢を抑制して、「ちょっと前」に戻るだけで人類は存続できる。
イスラムの台頭はそんな時代を予感させる。
イスタンブルでミニサイズのコーランを買った時にも、どこかでそういう時代への備えという気持ちが働いていた。聖書、毛語録、共産党宣言、日本神話・・・・100年前の中国民衆は欧米列強や日本、国民党、共産党と種々の旗を用意して、それこそ旗色を読みながら生活していたという。
そういうタフな体験を何千年か繰り返してきたのだから、オリンピックでメダルが山積みになるのも当然でしょうな。
まあ、書き始めるとごじゃごじゃ言いたくなるのですが、こんな事を考えて座っていたのではありません。ギターを弾いたり、雲や草を見たり、口を開けたり目を閉じたりで、ゆっくり。
蝉の声と手水鉢に落ちる滴の音、微か遠くの県道のホワイトノイズ。
いい時間です。