翻訳

昨日までの雨も上がり。たっぷりとテニスをして大汗をかき、街に出て学生たちの展覧会を訪れ、デジカメの最新機種をチェックして家に帰るともう4時になっている。
ここでビールを飲むと(必ずそうなるのだけど)もう一日は終わりだ。
その意味では雨で終日家の中に閉じ込められていた昨日の過ごし方も悪くない。

先日に見た映画「There will be Blood」、大演劇でなるほどねという出来栄えだったけど
このタイトルの意味はどうなんだろうと、暇に任せて調べてみたら
血は必ず流れる
或いは
血が流れるであろう
ということだった。
使われている単語は中学程度のものだけど、その微妙なニュアンスは専門家でもわかりにくい。
以前「Usual Suspects」を見た時も、このタイトルの意味をどう訳したらいいのか悩んだ。
日本語にすることは確かに難しいことではある。しかし、
こういう英語そのままのタイトルになるのは、明らかに「考える」という手間を省いているというか、日本語能力の低下が原因していると思われる。
といっても
「愛の・・・・」や「夜霧の・・・・」というような、ありきたりの邦題を肯定するものではないし、外国人との会話で困ることもないので、まあ、いいのだけど、ますます国を越えた移動が増えて異文化の接触が多くなる現在、翻訳から逃避してはいけないと思う。

でもね、俺もニュアンスの伝達ではとても苦労している。とくに女房との会話で。
いっそ英語で話したほうがいいのじゃないかというぐらい。
それは、夫婦間だけのことではなくて子供たちとのことでも生じるし、その子供たちが暮らしている他の文化圏でも起きている問題だ。

日本語の中でも常に翻訳が必要で、あるときには英語で日本語を言い換えたほうがわかりやすいという状況もある。わかりあう為には「言い換える、(辞書がそういうものだけど、)伝える」ことに労を惜しんではならない。
結局、教育関係の人がやってることは、それに尽きるのだろうな。
ただ各自の中にかすかにでも「響くもの」が無ければ、言語の種類を問わず通じ合うことは在り得ないのだけどね。

ところで、このBLOGにはコメントという欄があって、書き込めるようになっているということに、なんと3年目にして気づいた。
はるか昔の卒業生がコメントを寄せてくれていて懐かしいやら、嬉しいやら。
ご返事差し上げたいのでhorio@hijiyama-u.ac.jpにメールください。