表現と説明

明日の朝から京都に行き、二日の夜に帰ります。泥棒さん、どうぞ、ですが巨大ネコが爪を尖らせているのでご注意。
こういう新年の形がこれまで8割方続いていて、毎年、出かける前の女房は大変忙しくしている。
俺だって多忙な時は文句タラタラで愚痴っているけれど、仕事なので逃げる訳にはいかない。
同じ事なのだろうな。
年々「邪魔臭い」という気分が強まっていて、今月のオブスクラ展示も億劫だったし、年明けの卒業制作展もウンザリだし、その後に控える50周年展は考えたくもない。
老化の典型的な症状であり、近々に生きている事が邪魔臭くなるのだろう。
「自分がやらなければ・・・・」と力まず、若い人に委譲していけるといいのだがな。
イメージ 1

何もしていないような一日でも夕食後お決まりのコタツ居眠りをしようと映した子守唄がキューブリックの「2001年宇宙の旅」
久々の再見だったが昔同様の衝撃を味わう。
50年前に手仕事で未来のデジタル世界を描いている。
いま学生にこの映画を見せたら「何の事かさっぱりわかりません」という感想だらけになる。
「表現と説明では雲泥の差がある」と教えられ、信じて来た俺には「わかる、わからない」という評価基準が受け入れられない。
しかし、ですね、これが美術の命取りになったのかもしれない。
そもそも芸術は西欧知的エリートの価値観であって、その現れが表現だから「教養のない一般大衆」が理解できるものではない。
だから俺にもわからない。多少は絵を見て、文学や音楽にも触れたけれど、「あまりわかっていない」ことがわかっている程度だ。わかってないけど「かっこいいなあ」と強く感じていて共鳴はしてる。
理解からは程遠い。
同様の構図で、和歌や俳句もわからない。
そういう「わからない」領域が抑圧されているのが現代だ。
表現という言葉が反発を生むのか。だから表現を伝達と言い換えている。
伝達と言っても何が伝わるかが肝心。
「わからないけど痺れるな」であってほしい。