世界の心配、自分の心配


風が冷たく、強い。
しっかり陽射しがあったから二階のベッドで日向ぼっこ、お昼寝。
傍の棚からバッハのCDを取り出して聴く。
こんな過ごし方を療養の初期にはしていたのに、いつの間にか病人らしくない暮らしになっている。
有り難いことだが。
これほど長く休んだのだから、少しは賢くなったとか人生が変わったとかあってもいいのだが、以前と同じ。
まあ、酒や頭髪が無くても生きられることが分かったぐらいか。
このブログを振り返ってみても、孫と散歩と来客の話題ばかりだ。
例年になく来客、泊まり客が多かった。
これも有り難いことだが。
でも、窓の外はずいぶん変わっている。
空き地にはぎっしりと家が立ち、遠くの山も造成されている。
日本はこんなことをしていていいのかな?
世界が羨むような美しい国土と文化を作ることが急務ではないだろうか。不毛なコスト競争にさようならして。
なんて考えていたら職場から卒業制作がらみの電話。現世に引き戻される。
もうすぐ搬入だがお手伝いもできない。
いろいろと気がかりだ。俺が行かねばという気持ちは張りになる。
でも、実際には自分が居なくても世界は回る。
滑らかに移り変わって行けばいいのだ。
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また一週間、病院通いが始まる。
検査データでやっぱり病人だと意識させられ、先日までの「何でもないじゃない感」は消失する。

今からの数日を乗り切れば、春だ。