「今年も(また)」という言葉がすべての行為の前に付け加えられる。
「今年も(また)」孫の運動会に行った。
京都でも東京でも孫の運動会はあって、その画像をGooglePhotoで見る。
(こんなに便利なものはないが、いったいGoogle社はどんなメリットをここから得ているのだろうか?凡人の想像を遥かに超えるものであることだけは確かだ。)
「今年も(また)」大学対抗テニス大会に参加した。
S大ペアが接戦を落としたことので(カープと同じに)近年にない5位というBクラス転落となったが、俺は1勝、女房は2勝と貢献。
大会の昼休憩の話題は終活。見渡せば参加メンバーの大半は30年前と変わっていない。親の介護や自分の行く末など、あれこれ愚痴って、それいけテニスで元気なこと。
「来年も出られるかね」と話しながら帰る。
けっこう重い言葉だ。
でも新しいラケットを買った。
老人の救世主とS大の練習会では評判のラケットWilson St115。早く打ってみたいな。
「今年も(また)」彼岸花。
毎年、増えてきていると感じる。そして新しいほど色が新鮮に思える。
すううっと彩度が落ちてくすんでしまうのが寂しいが、基本的には不吉な花とされているから、仕方ない。でも最近はもっとポジティブに評価されてるみたい。
春の桜、秋の彼岸花で季節の変わり目を実感している。
「今年も(また)」と言える幸運をずっと味わいたいものだ。
明日は定期検診。