カンボジア こどもたち 教育

イメージ 1
遺跡にはショールやガイドブックの物売りが寄ってくる。
子供たちも多い。
日本人はいいお客さんみたいで、我々も言い値の半額になったと喜んで結構買ってしまった。
イメージ 2
親に連れられてきたり、遺跡を遊び場にしてる小さな子供たちもたくさん居る。
ヨーロッパとは違ってカメラを向けてもトラブルにならないし、愛想良く笑ってくれる。
イメージ 3



イメージ 4
町を少し外れると、村には電気や水道も無い。全身ほこりだらけで学校に行ってないような子供も多い。

イメージ 5
ホテルの向かいに学校があった。
小学校と中学が一緒になっているようで、なかなか立派。朝7時からラウドスピーカを震わせて朝礼をやっていた。
郊外でも白と黒の制服を着た子供たちの登下校をよく目にする。午前の部と午後の部に分かれていて、どちらかに通うという方式になっている。
気になったので帰国してからカンボジアの教育制度を調べてみて、驚いた。
インドシナヒットラーと呼ばれたポルポトは、教員や僧侶など知識階級200万人以上を抹殺したと言われている。
そのために民主化しても教員がいない。レベルも低い。
現在でも教員の給料は月額40から50ドル。普通に暮らすにはその10倍は必要だろう。
こういう負の連鎖が制度上に起こっているから、子供たちも半数が小学校で脱落する。当然に貧困から脱却できない。
隣国のタイやベトナムとはますます大差がついてくるだろう。

俺はもともと教育には懐疑的で、子供たちは親や教員の思惑に関わりなく、勝手に学んで成長すると考えている。ちょっと手助けをしてあげればいいのであって、過剰な指導は意味が無いと。
もちろん学習する場を否定するものではない。それで食べているのだから。
しかし、教育制度を否定したらどうなるかという極端な例を知って、もう少し積極的にならねばという気分になっている。

八木の土砂災害で亡くなられた人の中に、私財を投じてカンボジアに多くの小学校を建てた方が居ると聞いた。
日本は経済援助を続けているし、支援活動を展開している団体や個人も少なくない。
国の未来、一人の人間の将来にとって教育がどれほど重要なのか、それを意識させられた。
これも旅の大きな収穫だったな。