雨宿り

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帰宅途中に夕立に会った。
自宅は間近だったが稲光が走り雷鳴が響いてきたので樹木の下で雨宿りする。
安川を見下ろす急峻な崖道の向かい側には、ポストモダンのアストラム基地が在り、瀬音と背後の県道の騒音が入り交じるという不思議な場所。
ペダルを漕ぎながら聞いていた初級英語が終わって、通信高校講座、今日は古典の時間だ。徒然草方丈記に続いての3回目は枕草子。例の「春はあけぼの・・」ですね。田舎道を走りながら聞く朗読は良いもので、特に古典は新鮮に感じられる。新古今に驚いたのも寒い夕暮れの土手道を走っている時だった。
雨脚が強まったので高架橋の下に移動して聞き続ける。
「夏は夜」。納得できる。涼風が快い。
冬の段では、炭火について語られる。昼頃になって白い灰に覆われた炭火は風情が無いという。大昔に火箸で炭火を突っついた記憶が甦る。
平安時代以前から存在していたこの日常体験も我々の世代で途切れるのかもしれない。炭を使わなかった子供たちには、この一説は理解しがたいものだろう。そういう狭間に自分がいること、こういう感情はいつの時代にも老人が感じていたものかもしれないが、自覚しておきたい。
でも、あまり「わかる、わからない」にこだわるよりは、「いろんな感じ方、考え方がある」というように受け入れたいね。
古典は権威でなく不易だから納得できるのだし、「日本人にしかわからない」というような排他的な姿勢は何も生み出さない。こういう発言をする人は信用できないし、大嫌いだ。
集団的な学校教育はこりごりだけど、無理矢理に覚えさせられた古典の一説がこうして40年ほど経って胸に沁みることがある。思えば「何の役にも立たないこと」こそ、人間を人間足らしめていることの最大の条件だ。
何か非日本語的な言い回しになってしまったが、ともかく唐突に聞く高校講座は良いものですよ。