ボタン

ボタンの掛け間違い
という言葉が、ここしばらく気にかかっている。
出だしの思い込みがとんでもないズレを生んで噛みあわないという歯がゆさ。
変化の激しさや、生活スタイルの多様化で、出発点から異なるトラックに居ることに気がつかない。
老齢化で視野が狭くなり(経験を積んで深い洞察に達したとも言えるのだが)、別の価値基準や選択肢(ALTERNATIVE)を想像できない。
そんなことが増えている。

或る意味では当然のことだが、同僚の中で、また学生との中でそういうことが以前よりも頻繁に生じているような気がしている。
例えば「望んでいたことを教えてもらえなかった」という発言、学生の苦情が今年度は多かったけれど、
(お喋りばかりせずに)制作に集中した結果としての作品を提示して、それについて語り合うという美術教育の基本形式(欧米ではこれだけだろう。教師の表現スタイルを強制するなんてことはしていないはずだ。)を全く理解してもらえなかった。
それは多分、彼らが「ひとりで」、「自分の表現したいことを求めて」、「試行錯誤する」ということをあまり体験しなかったからではないだろうか。
こう書くととても難しいことみたいだけど、美術の授業でじっくりと作る描くという作業をしていなかったということだ。(中学高校で美術の時間はとても少なくなっている。)
何本か引いた線からひとつの線を選ぶとか、消したり描いたりしながら、ぼんやりしたイメージを徐々に、明快なものにするという体験。つまり鉛筆で何かを描くということです。
当然それは、ひとり黙ってする行為なのだけど、そういうものが欠如しているのじゃないかな、と思えることがたくさんあった。
シャープペンシルで一本線を引いたらそれでおしまい。違うのじゃないかなと言うと消しゴムで全部消してしまう。
何本もぼんやりした線を引きながら、ああでもない、こうでもないと「ひとり静かに」集中することってすごく大事だ。

「君たちは間違っている!」と言いたいことがいっぱいあるけれど
旧態依然たる老人が支配する日本の政財界をみると、こちらがさっさと引っ込むべきかな、とも思う。

来週は卒業式。
満ち足りた思いで卒業して欲しいものだけど、ズレは年々大きくなって来ている。
それでこんなことを書きましたが、学生には通じないだろうな。
多分ズレと言うよりボタンの掛け間違いなんでしょうね。