理想、修練、個性

ひろしまフラワーフェスティバルが始まった1977年に我々が広島にやって来た。
もう38回になるけど数回しか会場に来たことはない。
今回、知人からダンスショーに出演するという案内をもらい、日銀でも義理のある映像展示があるので、実に久々に平和大通りに出かけた。
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相変わらず、轟音が干渉し合う中をダラダラと群衆が歩いているだけの、つまらない空間でしかないが、若い人達のアニメーション作品やライブ演奏を見て技術と表現について感じるところがあった。
アニメーションを志す人の理想は、たいていは美少女キャラが繰り広げる大アクションであり、ギター少年の憧れは、早引き超絶テクニックと決まっている。
明確な目標に向かって努力するから高い技術を身につける人も多い。
この日も音楽コンクールを見ていて技術レベルには感心させられた。我々世代の比較ではない。
高度な技術は一般人にも価値が理解しやすい。
毛穴まで描くような細密描写は、少なからず絵画を志す者を誘惑する。
でもテクニシャンは掃いて捨てるほど居る。そのなかでも表現手法が内容と密接に結びついている人は極めて少ない。
ユニークさ、独自性を根に持たなければ、価値を認められる可能性が無い、というのがアートの世界だ。
歌の内容は聞き取りにくいが常套的なフレーズの寄せ集めみたいだ。「うた」から「うったえる」パワーが抜けたら人畜無害のイージーリスニングでしかない。
マンガ家の、こうの史代さんの言葉をまた引用させてもらおう。
「絵は上手くなくて良い。むしろ下手な方がいい。でも国語力は必須です。」このすべてがバンドの演奏やアニメーション作品に適用できる。芸術表現のすべてに。
でも独自性を持つ人は稀だから、学校や教室は、誰にでも理解しやすい安直な目標を与えて、本人が限界を感じるまで引っ張るという経営手法になっているのですね。
いや、教えている方も技術崇拝主義の信奉者だったりすることが多いんだよなあ。

なんて重いことを考えてたら「ベリーダンスショー」が始まった。
トルコの姉さんに負けじと目の周りをどぎつくメイクして、エスノファンクで腰クネクネ。
これは野外の出し物としては強力で、目を惹く。
ラストに全員が揃ったときはボリウッドダンスを期待したが、それは残念さん。
でも、しっかり楽しめた。
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マロニエがちょうど満開。
マロニエというと小学校時代に毎年、京都河原町で開いていた絵画教室展を思い出す。
その画廊の名前がマロニエ。いまも現地で中核的な画廊として続いている。
この赤はちょっとパリのイメージではないけどね。
マロニエという言葉がとても好きです。