無用な集団

イメージ 1
時折横殴りの雨が窓を打つ曇天の朝、ひたすらに眠い。
昨日のリツキサン点滴で病院通いはしばらくお休みになる。
今回はかなりこたえたなあ。猛暑だしね、睡眠も不足する。誰だって疲れる時期だ。
回復を目指してベッドの上でヨガ体操をやってみる。
YouTubeで見つけた50分コースの出だし部分を見ながら、ゆっくりと屈伸。
上半身の筋力が低下していて辛い。10数分で大汗をかき、シャワーを浴びる。
「健康」のイメージが甦る。

1週ぶりに見た孫は、数歩立ち上がって歩き出していた。
部屋にはさらに遊具が拡がって、エアコンの効いた部屋でエネルギッシュに動き回っている。
「人はあっという間に年老いる」ということや「孫はとても可愛い」という極めて自明の事とされていることがホントにそうなのだということが最近解ってきた。
それはそれで幸せなことであるが、そんなことでいいのか?という気もする。
あまりにも平凡で、もうちょっと独創的な感慨があってもいいのじゃないかなあ、とかね。
周囲はほとんどトラブルがなく、順風満帆、俺以外は。
こういう幸福に対して「いつ死んでもいいですね」とよく言われるが、その通りなのでしょうな。

陰の気が充満している待合室。俺もすっかり溶けこんでいる。
平均年齢は相当に高い。
こういう人たちがこの先、生産や消費の先頭に立つことはない。社会的な負担になるだけだ。それを優しくいたわってケアしていくような体制は長続きしそうにないなあ。
今でも医療費負担は増えるばかりだし、「いいお客様」として医療を消費しているのでもあるけど。
カードで会計を済ませているから直接に感じないが、財布から現金だったら苦痛だろうなと言うぐらいの金額だもんね。
しゃにむに働いて貯蓄して、延命のためにそれを使う・・・・

こういう無用な集団は処置してしまったほうがいい。そんなナチズム的な発想は自分の中にも在る。
自分自身が役立たずの中に居るのに、こんな事を考える。
誰の中にもその要素は在るのじゃないかと思う。
それが膨張して前面に出てくる時期が歴史の中には何度もあったし、これからも大いにその可能性は在る。
その矛先は内外を問わずに向けられて、ウンザリするような悲劇が起こる。
硬直するとそういうことになるから、
体操と深呼吸、忘れてはいけませんね。