2008
あれあれという間に今年も終わろうとしている。
朝晩はとても冷たくなったが日中の日差しは強く少し動けば汗ばむほどだ。
まだまだやらねばならないことが山積みだが、テニスの機会があれば出かける。
いつになく見事だった紅葉も散り果てて、裸になった樹木のシルエットが目に快い。今年もまたテニスコートのベンチに座り、陽光で暖まりながらその光景を楽しむという季節になってきた。
樹木を写したくなって、いつも身につけているカメラを取り出そうとして思い直した。
ルネサンス絵画の背景に描かれたような空気が、その風景から感じ取れるのだけど、それを写真に撮ろうとすると映せない。これまでも何度も試みているのだが自分が撮ろうとしたものが映っていない。

この文章を書きながら、たった今、思いついたのだが、俺は風景を見ながら、ファン・アイクやラファエッロの絵画の一部を思い浮かべて重ね合わせているのではないか。
だから、いくらカメラを変え、撮影条件を工夫してもそれは映らない。

じっと静止しているものだけど、樹木の撮影はかなり難しい。艶のある葉っぱは空を反映して青くなったりするし、フィルムの解像度でも大きな形の再現には無理がある。まあ執念が足りないのかもしれないし、肉薄できたとしても写真と絵画は違うものだ。そしてこれに近いことは普段でも起こっているのだろう。
それほど大差はないにしても、見ている世界は人によって異なる。色や形の見え方が人によって違うというのは想像するのも難しいが、頭の中身が同じ人はいないことを思うとそれも当然なんだけど、写真を見ると誰も「客観的なもの」として疑わない。
それでも自分の写真に不満を感じない人はいない。自己イメージそのままに映ることはまず有り得ないからだ。

ストレートに自分の視覚を定着できたときに絵画は最も感動的なものになる。
ゴッホはあのように世界を見ていた。時々でなく「常に」だったから過酷なものだったろうな。

多くの絵画を見て、そこから様々な見方を吸収した。それが光景と重なって見えるとき、俺は「美しい」と感じているのだ。写真や映画からもそういった規範を得ているのだろう。
当然のごとく、何でも写真に撮れば再現できるということはない。
描かねば捉えられないものがある。
まだまだ、やり残していることはいっぱいあるぞ。