落語

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中国新聞ホールで米朝一門の落語会を見た。

50年は経ってるな、と感じる建築。低い天井に狭い椅子。そこに老人の群れ。

広報からチケット販売まで時代遅れと不明瞭。

演者の前口上にも老齢化が取り上げられ、周囲を眺めてなるほどなあと落語界が直面する困難を考えさせられた。

我々世代が若かりし頃は、高校大学に落語研究会があり、学園祭では定番の出し物になっていた。

当時、京都のラジオで桂米朝のレギュラー番組があり、高校生が日本古典文学をパロディにして投稿して笑いを競うという、今にして思えば信じられないハイレベルなものだった。この会場に集まっている人たちも、そういう時代を生きてきたのだ。

「お家へ帰られたら、どうぞお孫さんたちに落語の面白さを話してほしい」と一回りは若い落語家さんたちが訴えている。

これは他人事ではない。

絵を描く、美術に進むという動きにも落語と同じような盛り上がりがあった。

それは何だったのか?どのようにして衰退して行ったのか。

 

落語は噺のベースが江戸からせいぜい大正時代。その時代の余韻に触れた最後の世代が我々だ。その後の人には伝わない内容がほとんどだ。

ただ、枝雀は英語で落語をやった。どんなふうに外国人に伝わったのか?

そこに可能性は残っている。たとえ落語という名前で呼ばれなくても。

 

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ホールの窓から市内を見る。