透明な存在

だるーい夏の朝。着替えても動く気がしない。そのまま安楽椅子に腰かけて、傍の書棚から「思想の科学辞典」を手に取る。

外箱があるので傷んでないが黄ばんできている。半世紀は経っているから。

ほとんど読んでいないけど、散見すると良い内容だ。次はこれを読むかな。でも「世界を理解するための基礎知識」みたいな本をこの歳になって読んで、意味あるんか?役に立つことあるん?

パスカルみたいに宇宙の沈黙に対峙する気迫も無いし。

 

朝食後、再びイザベラ・バード

ボロカスに描写されてる農民だけど、これまでに描かれたり記録されたことがあっただろうか?西行芭蕉のような漂泊の詩人には透明な存在だったのではないか?

どれほど蔑まれようと、眼が向けられて言葉で記録されたことは無視よりははるかに価値があることだろう。

この数日と同様にお籠りしているが、今日は玄関のドアすら開けていない。これはいかんと出てみたら、夕方4時前なのにかなりの暑さだ。

身のために自転車は止めてバイクで近隣へ。

山肌に点在する農家を結ぶ小道を走る。150年前のこの辺りはどうだったか?あんなに移民を送り出した土地だ。東北の山間に負けない過酷な暮らしだったことだろう。

貧民層で虚弱な俺など成人する前に消えていたに違いない。

50年前を感じさせてくれるカンナが廃園に咲いていた。