こどもにナメられた。

学生の研修、ようするに遠足だけど、大久野島へ。

朝には晴れるという予報がどんどん先送りになり、というか雨雲を追いかける形の異動になっていたのだが、昼過ぎまで雨が続いた。

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同僚の幼児二人も同行したので女房もサポートに来てもらう。我が家の孫と同世代で毎月のように遊んでいるから他人ではない。

とことん動物が好き、というタイプの子だけど、この後で竹原の古い街を手をつないで歩いていたら、俺の手の甲をペロペロとナメた。ビックリしたら面白がってさらにナメる。「どんな味がする?」と聞いたら「しょっぱい」と。

ジイさんナメたら病気になるよ。

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2歳の妹も強烈な個性を持っていて、チャラ男一直線の近所の孫や微妙な味の違いを言葉で表現している東京の孫と比べて思うことは、人間は(幼少期からでも)随分違うということだ。

東欧のユダヤの村はシャガールを支援してパリに送った。彼等のスタンダードが世界を変えてきた。

その反対に標準化を目指す日本にもメリットはある。二者択一の必要は無い。どちらも大切だから原則に固執せず使い分ける、つまり適当にいい加減にやっていけば結果オーライではないか。

こういう選択ができるのも神仏混淆を続けてきた日本の利点だろう。

柔軟性を忘れてクソ真面目になってはいけない。

 

しかし、こんなこと、ウサギと戯れて考えることかいな。