90歳の母も少女だった。

孫の来襲で敬老の日には間に合わなかったが、この前に京都で聞いた母の思い出話をハガキに描いて投函した。
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母が小学校に上がる前というから80年以上も前のことだ。西七条で青果の卸をしていた父親は、鴨川の丸太町付近の川端市場にも店を出していて、青果を運ぶ荷車に便乗して連れて行ってもらったという。
大八車はシローという滋賀県出身の丁稚が引き、飼い犬のジョンも手伝った。オヤジさんはバイクのサイドカーで悠々のご出勤だが、ほとんど店には出ず、女遊びに専念。店を任されていた長男は売り上げを持って新京極の映画館へ。それを見つけたオヤジさんから折檻されるが忠犬ジョンが間に入って止めようとする。犬に免じて許されるが道楽は止められない。オーナーがそんな調子だから店の売り上げも丁稚がくすねる。
母が言う一番幸せだった時代は当然のごとく数年で崩壊した。父親は女のところで心臓麻痺。没落した家族はかなり惨めな生活を送ったらしい。
そんな思い出話だった。
軽く調べてみると七条や川端の公設市場開設の背景には大正期の米騒動があったようで、そこでも権益を巡って汚い裏取引が行われていたのだろう。俺の爺さんはそんなアブク銭に囲まれて育ち、かなりの腑抜けになっていたのではないか。母は父親を決して悪く言わないが呆れた人間である。
俺のオヤジの父も負けず劣らずの道楽者で、子供達は苦労させられたという話を聞いているから、この時代、チャランポランな人が多かったのだろう。
いずれにしてもワタクシはその遺伝子を引き継いでいる訳でありますな。