百日紅

きょうも「汚い風景」を求めて回ったが見つけられない。「どこにでもあるだろう」と書いたばかりだが「汚くて、かつ美しい」というレベルには簡単に届かないようだ。

ということで百日紅を描いてみた。何処にも行けない今、周辺のあちこちで8月初旬からずうっと眼にする。なるほど百日紅というわけだ。

サルスベリというと京都国立博物館前の大和大路にずらりと赤い花を咲かせて並んでいる、お盆の風景を思い浮かべる。

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チリチリした花がいっぱい集まっているぐらいに捉えていたが、近くで見るとあれまあ不思議。六角形の蕾の割れ目から花びらが出ていて、これで一つの花になっているのか?葉の出方も独特だ。

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百日紅を描いたところから見下ろした安佐南の盆地。

山麓の標高150mぐらいまでギッシリと宅地が密集している。昨今の集中豪雨が続けば半分ぐらいは土砂に埋もれる虞がある。その様を想像してみる。

アストラムの鉄道がなければ無秩序なスラムに近く、都市と呼べるものではない。

こういう光景を見るのは辛いものだが、こうしてスケッチにすると軽みが出てくる。

表現するというのは肯定することだからな。

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明日から緊急事態宣言となるので公共の施設は基本的に閉じられる。

近所のクレーコートで打ち納め、ひとりで90分。

少しフォームが掴めてきたところなのにな。

ピアノと同じようにウンザリするほど繰り返して体に覚えさせるしかない。老人ならそれが若者の10倍はかかる。やっとそういう機会が得られたのに、残念だ。

ビジョンを描けない人をリーダーに持つ悲しさを20年前に書かれた橋本治のエッセーで再確認している。

「人新世の資本論」が新聞広告に出ていたから、これは読まないと。